【 美 し い 人 】 sequel


頭の良い彼は、一体どれほどのことを覚えているのだろうか。





「……死んだ?」
「ああ。死んだっつーか、消えたらしい。でも、マリーアが死んだっていうなら、死んだんだろう」
「なんで?!」
ルシファーはつい先日まで神の記述をめぐって闘った敵だった。しかし、その動機は失った娘への愛情であったし、最終的には蛮に応じて魔女の力を雨流を救うのに使ったというのに。
決して、死んでいい相手ではなかった。
「わかんねー。でも、神の記述を乱用したツケが回ってきたのかもな」
言葉はそっけないが、思うところがあるのか蛮の目は鋭く前を睨んでいる。
銀次は蛮の険しい表情に息をのんだ。
蛮の考えていることは小指の先ほども推し量れなかったが、不穏な予感に銀次の心が粟立つ。
蛮が見据えた先に銀次も目を向けた。
そこには、無限城。
スバルを止めた道の先、いつくかのビルや建造物群の向こう側に、その黒い影は聳え立っている。
幾本もの鉄骨が突き出たその姿は、天へ向けて剣を突き上げる巨人のようだ。

ほんの少し前まであそこに自分がいたなんて、なんだか信じられない。
勿論、忘れたわけではない。
しかし、とても遠い昔のことのように感じる。
どうしようもない衝動に突き動かされて飛び出してきた日の雨の冷たさははっきりと思い出せるのに、無限城で過ごした10数年間の記憶はぼんやりと頼りない。
救えなかった沢山の人々の顔。この手で殺した無数の命。仲間の声。助けを求める悲鳴。
どれも忘れ難いものだったはずだ。
それなのに、今となってはあらゆることが漠然としていて、その手触りも温度も既に曖昧だった。
その時自分が何を思い感じていたのかすら、指の間を流れ落ちる砂のように、銀次の記憶からはらはらと零れゆく。
覚えていることといったら、押し潰されそうな暗い圧迫感が頭上を覆っていたということだけ。
閉じた瞼に浮かぶのは、先ほど見たアスファルトに散ったマリーアの花の鮮やかさだ。

銀次は隣の蛮に視線を戻した。
蛮は相変わらず無限城を睨んだままだ。
無限城を通して、その向こうに何か他のものを見ているのかもしれない。
例えば、今まで蛮を通り過ぎていった人のこととか。
近しい関係にあったのに死んでしまった人のこととか。
蛮を裏切り者と罵った人のこととか。
そんな人たちの叫び声とか。痛み、とか。
蛮がすぅっと目を眇めた。


――――――ああ、またあの貌だ。


銀次は俯いて唇を噛む。
蛮はかつて関わった人たちの声や痛みを忘れずに覚えているのではないかと、銀次は最近思うようになった。
だが、人の痛みは決して心地よいものではない。
特にそれが自分に向けられたものならば傷付かないはすがないのに、蛮はそれを悟らせない。
蛮は強い。
すぐに忘れてしまう臆病で薄情な自分とは違って、彼は涙一つ零さず、揺らぐことなく平然と立っている。
叩きつけられる感情も罵声も甘んじて受け止めて、そして許すのだ。
何も言わないけれど、蛮は静かに許している。
やがて全てが通り過ぎ、何もかもが過去のものとなって皆が忘れてしまっても、彼だけは覚えているのだろう。
それは、いつまでも乾かない生々しい傷を無数に抱えているようなものだ。
その傷口の赤さを思うと、銀次は身を切られる気持ちがする。
「蛮ちゃん……」
ハンドルに引っ掛けられた蛮の腕に銀次がそっと触れた。
蛮が振り向く。
同じ高さにある蒼い双眸には、秋のように深い悟りが沈んでいた。
「泣いてもいいんだよ」
蛮の目が見開かれ、そして笑いを含んだ。
「……オメーが泣いてんじゃねーか」
「うっ…」
「つーか、なんで俺様があの髭オヤジが死んだからって泣かなきゃなんねーんだよ」
「だって、マリーアさん、泣いてた」
「あぁ。マリーアはヤツと長い付き合いだったからな」

だが、ルシファーを失ったマリーアの悲しみを蛮は知っている。
そして、死んだルシファーの悲しみを暴いたのも、蛮の眸だった。
二人の哀しさを知っても泣かない蛮を、銀次は哀しいと思う。


かなしいものは、美しい。


「ほら、弁当食うんだろう」
おもむろに蛮は銀次の頭からバンダナを引っ張り取ると、それで乱暴に銀次の顔を拭いた。
遠慮のない強い力でゴシゴシと擦られる。
「い、痛いよー」
「うっせー」
抵抗する銀次に蛮が笑って手を伸ばす。いつものようにじゃれ合う二人。
車内に明るさが戻った。
「それよりお前、俺様の煙草はどーした」
蛮が弁当を取り出した後のビニール袋を振って言った。逆さに振っても何も出てこない。空だ。
「ああ!!」
忘れちゃった!
銀次のしまったという表情に、蛮がため息をついた。
「ったくよ〜」
「ごめんね〜」
煙草がきれたからついでに買って来い。
いいか、忘れんじゃねーぞ。
カートンで買うんだぞ。
そう言われたのに、銀次は弁当選びに気を取られてすっかり忘れてしまった。
今銜えている煙草がきっと最後の一本だ。
しょんぼり肩を落とす銀次に、蛮が腕を伸ばしてくしゃりと髪を掻き回す。


「ホント、ばっかだなぁ、オメーは」


しょうがねぇなぁ。


苦笑まじりに呟く蛮ちゃんの声。

――――――許される、オレ。



たった一つならば、癒えることのない傷でも耐えられるだろか。
オレはバカで、物覚えが悪くて、どんな事でもすぐに忘れてしまうけれど、
彼のことだけはずっと抱えて生きていこうと思う。







彼はかなしみでできている。






その喩えようの無いほどの美しさに、オレは時々少しだけ泣く。




END




原作18巻、神の記述編36あたりに入る話(銀ちゃん入院直前くらい)と思っていただけるとコレ幸い。
蛮ちゃんの美しさと、蛮ちゃんの「ばぁか」に関する、銀次視点での一考察。

でも、ホントは銀ちゃんだってみな覚えているのよ。

2003.11.9




++back++