【 美 し い 人 】 prequel


蛮ちゃんはオレによく

「バーカ」

って言う。
言葉の乱暴さとは裏腹に、そんな時の蛮ちゃんの顔は決してオレを見下すものではなくて、どちらかと言えば胸がほんわかと温かくなるものだ。
片方の眉を器用にひょいっと持ち上げ、銜え煙草の口の端も一緒に吊り上げる。いたずらっ子の表情。
蛮ちゃんのバカって言葉は、少なくともオレに対しては、馬鹿にするのではなくからかう時に使われることが多い。そして、しょうがねぇなぁオメーは、という声にならない言葉が必ず後に続く。
その響きには許しみたいなものがある。
だからオレは蛮ちゃんに「バカ」って言われても全然平気。
それどころか、こそばゆい心地良さすら感じるんだ。

だけど、確かにオレはあまり頭がよくない。
いや。多分、悪いと思う。その自覚はある。
取りあえず、蛮ちゃんはオレから見てもとても頭がいいから、彼に「バカ」って言われても仕方が無いくらいには頭が悪いのだろう。
特にもの覚えの悪さは最悪だ。すぐに色んなことを忘れてしまう。とても大事なことでさえも綺麗に忘れる。
流石にこれはどうにかした方がいいのではと、不安になって蛮ちゃんに言ってみたら、
「ああ。オメーは、ちょ〜っと忘れすぎだよなぁ」
蛮ちゃんはスバルの窓を少し開け、煙草に火をつけながらオレを横目で見た。
「すぐ道に迷うしよぉ」
ごめんなさい。
よく迷子になって蛮ちゃんにSOSコールをしてしまうオレは、思わず小さくなった。



「…………まあ。世の中には忘れといた方がいいことってのもあるさ」



灰とともに落ちた声は、どこか淋しさを帯びていた。







温かい弁当を手に戻ってきた銀次は、路地の先の光景に足を止めた。
黒いドレスを着た女が蛮の胸に顔を埋めている。
しゃくりあげているのか、女の肩が時折上下する。蛮は彼女の背に腕を回して柔らかく抱いていた。
「蛮っ…」
微かに漏れ聴こえてくる声はマリーアのものだった。
二人の足元には、小さな花束が落ちている。舗装の悪いアスファルトに白い花びらが幾枚か散っていた。
マリーアの背を軽く擦ってなだめる蛮の表情は、何とも言いがたいものだった。
眉を僅かに潜め、薄い唇は引き結ばれている。
伏せた長い睫が濃い影を落とし、顎を引いた輪郭の中心で鼻梁が綺麗な線を描く。
蒼の瞳はややけぶっている。
赤みのささない頬は、陶磁器の白さ。
何度か見たことのある表情だったが、他を寄せ付けない雰囲気に銀次はいつも言葉を失う。
孤高、とも言うべきか。
そしてそこには、胸を突く透明な美しさがあった。
今も銀次は凍りついたようにその場を動けず、ただ立ちすくんでその様子を眺めていた。
暫くしてマリーアが顔を上げると、蛮は彼女の顔を覆っている黒のヴェールに片手を潜らせて頬を撫でた。涙に濡れた頬を拭ってやっているのだろう。
普段の粗暴な言動からは程遠い、優しい仕草。白く細い指先が思いやりでできているような動きをした。
蛮がマリーアに小さく微笑みかける。
銀次は耐えられなくなって、そっと目を伏せた。


―――――――泣いてしまいそうだ。


爪が食い込むのもかまわず、コンビニの袋を持つ手を握り締めた。
息を噛み殺して涙を堪えていると、マリーアが屈んで花を拾い上げるのが視界の隅に見えた。
やがて、彼女の気配が去る。
それを確かめて、銀次はやっと顔をあげた。
ずっと気付いていたのだろう。蛮はスバルに寄りかかって此方をじっと見詰めていた。
銀次は落ち着きを取り戻すためにゆっくりと息を吐き出しながら近づいていく。
「……蛮ちゃん」
「遅かったじゃねーか。弁当、冷めるだろう?」
銀次が目の前までやって来ると蛮は視線をそらし、赤い箱の底を指で弾いて煙草を一本摘んだ。
その器用な手元をぼんやりと見ながら、銀次は重い口を開いた。
「――――――何があったの?」
蛮は無言のままスバルのドアを開ける。
銀次が助手席に乗り込むと、蛮は銀次の手から袋を奪った。
「ねえ。蛮ちゃん」
答えない蛮に、銀次の声が詰まる。
車内にビニールの音が響く。
「マリーアさんのドレス」
外国の映画で見たことのある、黒いドレスとヴェール。確かあれは、軍人の夫を亡くした未亡人の話だった。
「……あれって喪服だよね」
弁当のラップを剥がしていた蛮が、手を止めた。
「誰が死んだの?」

誰か、ではなく、誰が。

銀次の感は鋭い。
自分にとってもそう遠い存在ではないことを感じ取っている。
蛮は諦めの滲んだ息を一つつくと、言った。



「ルシファーが死んだ」