「銀次さんは、変わりましたね」
「そうかな?」
「決して悪い方にではありませんよ。寧ろ、良いことだと思います」
「ありがとう」
「昔のあなたはいつもどこか哀しげで、僕はそれを少し寂しく思っていました。でも、今は本当に、まるで別人のようによく笑って――」
「…昔のオレと、今のオレ、どっちがいい?」


「…………今も昔も、あなたはあなたですよ」


でも、そんなキミの眸は今も雷帝を探しているね。










所詮この姿がかりそめならば、あなたが形作ったオレ以外のオレはいらない。






砂 の 獣









夜は、モノの輪郭を闇に溶かして境界を曖昧にする。
夜中に突然目が覚めてしまった銀次は、なかなかやってこない眠気に焦りを感じていた。
月のない夜は、いつもより闇が濃い。
ねぐらにしているこの公園は、繁華街の喧騒からは意外にも距離があり、ケバケバしいネオンも木々に遮られていた。少し離れた場所にある街灯の明かりが薄っすらと届きはするけれど、車の時計の光の方が眩しいと感じる。
何だか寝苦しくて起き上がると、目の前の埃で薄汚れたフロントガラスに、デジタル時計の光に照らされた自分の影がぼんやりと映っていた。
目を凝らして頭を動かせば、明るい髪の部分が影の動きで何となくわかる程度で。
その下にあるはずの顔も身体も、輪郭すらぼんやりと頼りない。
勿論、目鼻立ちなどは全く判別が付かない。
だが、希薄なのに、どこまでも昏い影だった。



それが、まるで自分の本当の姿のように思えて。


銀次の背がおののく。



銀次は鏡を見るのが嫌いではない。
特別好きなわけでもないが、最初にこちらの世界で自分の姿を見たときには、酷く驚いたものだ。
確かにそれは自分だったけれども、場所が変わっただけなのになんだか知らない人間のように思えた。
明るい日の光の下では、自分はこういうふうに見えるのだと、初めて知った。
自分の外見を気にすることはあまりないけれど、でも、外の世界で蛮の隣にいる自分は、何だかとてもいい。
そう思った。

しかし、ある晩。
目が覚めて、あたりの静けさに、この世界にひとりで取り残されたような気分になった時。
何気なく外に目をやった際、ふとガラスに映った自分の影を見とめて、銀次は凍りついた。
そこだけ自己主張する明るい髪の下に、ぽっかりと空いた黒い穴。
指を伸ばせば、無機質で冷たいガラスの温度が伝わるだけだった。
その冷たさが皮膚の内側に流れ込んでくるのと同時に去来した、ある恐ろしい考え。


自分の形を映したはずの黒い影もまた、温度を持たない無機質な幻影に過ぎなかったら、天野銀次という殻が暗闇に溶けた後に残されたものは、一体何?



外に出て初めて自分がどんな姿かたちをしているのか気付いた銀次が、次に考えたのは一体自分は何者なのか、ということだった。
無限城の中では、そんなことを考える余裕はなかった。
考えるべきことはその日一日を生き延びる術だけだ。
強いものが生き延びる。力が全てという、単純明快にして容赦のない理論で世界は構築されていた。
外の世界に出た後でも、日中は目の前の出来事で頭がいっぱいになって考える時間はなかった。目に飛び込んでくるもの全てが目新しくて新鮮で、とにかく夢中だった。
そして傍に蛮がいれば、銀次の意識の大半は蛮へ向けられる。
しかし、夜半の襲撃に備える必要のない、暖かい毛布に包まって眠れる安心が、かえって銀次に思考の余裕を与えた。
世界が寝静まった夜にひとり目覚めて、改めて自分の影をみると、そのつかみ所のなさが自分の中身をあばいているように思えたのだ。
自分が何者かなんて、どんなに考えてもわからなかったから。


だって、オレには、天子峰に拾われるまでの記憶が一切ない。


オレは、どこから来たんだろう。

オレは、一体、誰なんだろう。







銀次はフロントガラスから無理矢理目を引き剥がして毛布に顔を埋めた。
目を閉じると、黒いシミのように脳裏に広がる虚無のイメージに身体が傾ぐ。
「変わった」ことを肯定するくせに、寂しげだった花月の顔。
雷帝の存在など知らず、無邪気に「銀ちゃん」と呼ぶ夏美の笑顔。
今まで関わった様々な人々が、それぞれに銀次を呼ぶ。その顔が交互に浮かんでは消えてゆき、頭の中で声が反響を繰り返した。
雷帝。銀次。銀ちゃん。悪魔。銀次さん。天野。銀次――――。
乱反射するその声が不快な金属音に変わり、思わず耳を塞いだ瞬間、ぐらりと眩暈に襲われて銀次はシートに倒れこんだ。
頭から血が音を立てて引いてゆくのがわかる。一気に体温が下がり、全身に悪寒が走った。次いでこみ上げてくる吐き気。
「……っ」
息苦しさに喘えぐが、息の仕方を忘れてしまったかのように、うまく空気を取り込むことができない。シートに爪を立てながらもがいて身を捩ると、霞む視界にちょうど蛮が入った。
震える手を伸ばし、そっと毛布の上から蛮に触れる。
蛮の身体が上下するのを布越しに感じ取ると、銀次はそれに合わせて呼吸を繰り返した。
次第に呼吸が楽になってゆく。
毛布の上に置いた手をゆっくりと蛮の顔へ移動させる。触れてしまわないように、注意深く口元に翳せば、指先に温かい吐息がかかった。
蛮の息づかいを感じてやっと、緊張していた銀次の頬が僅かに緩んだ。
と、その時。
蛮が急に寝返りを打ち、銀次の手が蛮の頬を軽くはたくように触れてしまった。
「あっ…」
思わず漏れてしまった声を慌てて飲み込むものの。蛮の眉根がぴくりと動いて、ゆっくりと瞼が上がってゆくのを銀次は呆然と見つめる。
糸がほどけるように、蛮の瞳が開く。
まだ覚醒していないのか、ぼんやりと焦点の定まらない視線が銀次の上を彷徨い、怠惰な瞬きを繰り返した。
銀次は暫くの間息を殺して成り行きを見守っていたが、蛮が銀次の顔に完全に焦点を合わせたのに観念すると、
「ごめんね。起こした?」
起こしたも何も、もう起きちゃったし……とは思ったけれど、やはり謝らずにはおれない。
「…………何?お前、起きてたの?」
小さく欠伸をしながら、寝起きの掠れた声で蛮が尋ねた。銀次の声音があまりにしっかりとしているのに気付いたのだろう。
「ちょっと眠れなくてさ」
努めて軽い調子で、何でもないことのように言う。
蛮はいよいよ起き上がると、ダッシュボードに手を伸ばしてタバコの箱を取り出した。
ジッポのオイルの匂いとともに燈った火が、数瞬の間蛮の顔を照らす。
闇に慣れていたせいか、目が焼けそうなほど眩しく感じて、銀次は思わず瞳を眇めた。
本当に眩しいのはライターの火なのか、それとも陰影をつけてはっきりと暗闇に浮かび上がった蛮の姿なのか、わからなかったけれど。
「………で?恐い夢でも見たかよ」
蛮は微かに顎を上げて紫煙を吹き出すと、明日の天気でも聞くような気軽さで、前を向いたまま尋ねた。
「違うよ。…ただ、ちょっと眼が覚めちゃっただけ」
「ふーん。何か顔色ワリーけど?」
ちらりと、蛮が銀次に視線を流す。
「そんなの、こんな暗い中でわかるわけないじゃん」
「わかるっつーの」
笑って流そうとする銀次に、蛮は煙をふ〜っと吹きかけた。
「ちょ、ちょっと!っ!ゲホゲホ」
銀次が煙たがるのを面白がって見ていた蛮だが、銀次が咳き込み続けるのに気付くと眉をしかめた。
「……大丈夫かよ」
蛮の声のトーンが落ちるのに、銀次は手を振って大丈夫だとアピールする。
しかし、呼吸がようやく落ち着いたところでもろに煙を吸い込んだらしく、咽てしまって止まらない。生理的な涙で滲んだ視界に白い光がチカチカとまたたいて、再び眩暈が襲ってくる。
ヤバイ。
平衡感覚を失って支えきれない身体がぐにゃりと折れるのをどうすることもできない。
「銀次!」
ダッシュボードに額を打ち付ける寸前、名前と同時に伸びてきた腕に抱き止められるのを感じた。
そのままシートに横たえられ、咳を繰り返して跳ねる背を骨ばった手が擦ってくれる。
暫くはヒューヒューと咽喉が鳴っていたが、そのうち大分楽になった。
「ゴメン。ありがとね」
目尻に溜まった涙を拭いながら、銀次は蛮の手をそっと取って押し返した。
背を擦ってくれる蛮の手が心地よくて、いつまでも甘えてしまいそうだったから。
彼の手が背を行き来する度に、それによって自分が次第に形作られてゆくような錯覚さえするほど。
「悪かったな」
ちょっとした悪戯心だったのに、思いがけず苦しませてしまったことを悔いているのだろう。ポツリと謝る蛮の声が細い。
それに銀次は焦った。
「大丈夫だからさ」
あなたを困らせたいわけじゃないんだ。
「……ただ、ちょっと」
「ちょっと?」
うまい言い訳が見つからなくて宙に視線をさまよわせていると、蛮がひょいっと顔を覗き込んできた。
合ってしまった目が逸らせなくなって、そのまま蛮と見つめ合ってしまう。
蛮の虹彩の中心に映っている黒い影を見たその瞬間。


あなたの言葉で、オレを語って。
あなたの指でオレを確かめて。


慟哭にも似た、胸が張り裂けそうな想いが身体の奥からせり上げてきて、
「蛮ちゃん。オレは今ここにいるよね?」
今にも悲鳴に変わりそうな声を無理矢理咽喉奥で押し殺して、尋ねる。
「はぁ?」
「ここにいるオレは、本当だよね」
「何馬鹿なこと言ってんだ、お前は。……ここにいるお前以外のお前なんてないだろう?」
いつになく鬼気迫る銀次の勢いにのまれながらも、蛮は当たり前と思うことを含むように言い聞かす。



血を吐く思いで積み上げてきたものを全て捨てて、蛮のもとにやって来た。
しかし、積み上げたはずのものも、その時の自分の手も、幻に過ぎなかったかもしれない。
「雷帝」という鎧を脱ぎ捨てれば、これほど人間は変わるものなのか。
“――――まるで別人のように”
だけど、今の自分が本来の自分だなんて保証はどこにもない。
銀次はかつての自分の影と、新しい環境で生まれた自分との折り合いを付けられなくて混乱した。
そして、混乱が運んできた己に対する疑心は、着地点を持たないまま銀次の中で増幅を繰り返す。
根のない草のように不安定な、どうしようもなく淡く脆い像しか結べないまま、不安だけが化け物のように膨らんでいく。
所詮全ては砂の城だとしたら、新しい天野銀次もいつか崩れて跡形もなく消えてしまうのだろうか。
でも。
たとえそうだとしても――――――。

ニセモノじゃない。ニセモノじゃない。ニセモノじゃない。

この気持ちだけは本当なんだと自分に言い聞かせて。
どうか、蛮を求める気持ちだけは、何にも侵されず、永遠に変わることのない真実であり続けて欲しいと必死に願う。



「何か知らねーけどさ、ツマンネーこと考えてんじゃねーよ」
銀次が闇雲にぶつけた不安を持て余したのだろうか。蛮が少し困ったように笑った。
その笑顔に銀次の中で何かが弾けた。
「蛮ちゃん」
「……おい?」
突然圧し掛かってきた銀次の身体を、蛮は持ち前の反射神経のお陰で何とか受け止める。
蛮にも、銀次が自分に何らかの不安を抱いているらしいことは感じ取れた。不安というよりも、不信感といった方がいいのかもしれない。だが、先ほどから漏れる言葉は余りに断片的で話しの筋が見極められず、銀次の不安を拭う言葉が見つけられないのだ。
「蛮ちゃん。蛮ちゃん…」
銀次は熱にうなされたように蛮を呼び続け、蛮の身体を確かめようと両手を忙しなく這い回らせる。
その感触に蛮の身体に熱が灯るのに気付いても、なお煽るように膝を蛮の脚の間に割り入れると、強く押し上げた。
「っ、銀次」
堪らなくなって蛮が叫ぶ。
制止にも構わずに、銀次はそのまま擦り上げながら自分の身体を蛮に押し付ける。
「お願いだよっ。…もっと呼んで、オレを呼んでくれよ!」
何かに追いたてられるような、あまりに切羽詰った銀次の声に、蛮は思わず銀次を突き放した。
「蛮ちゃ…!」
抗議する銀次の声が途中で蛮の唇に飲み込まれる。銀次は驚いて目を見開いた。
しかし、蛮の指が後頭部をかき回してなだめるのにやがて瞼をおろすと、徐々に力を抜いて口付けに酔ってゆく。
銀次が落ち着いたのを見計らって、蛮は静かに顔を離し、
「お前、バカなんだからさ。こ難しいこと考えてんじゃねーよ」
蛮の両手が銀次の頬を包み込んで、親指がそっと銀次の目の下を撫でた。
穏やかな愛撫に銀次がゆっくり目を開けて、もう一度二人の視線が絡むと、

「お前はテメーの選んだモンだけ信じてろよ」

「…………蛮、ちゃん?」
「簡単なこったろ?」
「蛮ちゃんっ」


優しくオレを象ってくれるあなたに、泣きたいくらい感謝している。
オレはあなたの愛を貪り喰らう、空ろなケダモノだ。

蛮以外の何者も視界に入らぬように、銀次は蛮の肩口に顔を埋めた。






あなたの美しい瞳に映るオレが、あなたの好きな「オレ」だといい。
せめて、この無慈悲な夜が明けるまでは――――――。




END




花月さま初出演(冒頭部分)。奪還屋を始めて間もない頃の二人?
久しぶりにメロウな銀ちゃんを書いてみようと思ったのですがっ。がぁ。
テーマはロスト・アイデンティティです。思春期だ(笑)。
原作銀次の決め台詞、「オレはゲットバッカーズの天野銀次だよ」を、ものスッゴク穿った見方で書いてみたら、玉砕しました。
原作の蛮ちゃんは何でもまるっとお見通しなので、蛮には理解できない銀次の問題も書きたかったのです。
生まれた時から過酷な「宿命」を背負った蛮は、自分が何者であるのかをイヤと言うほど知っているから。
でも、なんというか、突っ込みどころが多すぎだ……。
あらゆるところがダメだ。何もかもがダメだ。
そもそも銀ちゃんが弱過ぎです。ニセモノだー!
お前なんかニセモノだー!!こんちくしょー!(>_<)
私の本来の銀次観と相容れないものを書いてしまい、ストレスが堪りました…。
しょうがないので(?)、銀次に蛮を襲ってもらったさ。


2004.1.27




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