† Amazing Grace †






俺の背中から不吉が生える。






息苦しい。
空気を取り込もうと何度も何度も大きく口を開けるのに、息苦しさは全く解消されない。まるで苦しんでいる自分をあざ笑うかのように、酸素が咽喉から背後へすり抜けて肺には到達しないのだ。
苦しいのは思い通りに吸い込めない息だけではなかった。
手足が重く、前へ進めない。必死に動かしても、泥の中を掻くように一歩前に踏み出すのがやっとで。自分の手足の動きをスローモーションのように感じる。
咽喉元まで嗚咽がせりあがる。
眼球の奥が熱くなり、視界がぶれる。
どんどん早くなる鼓動。
襲い来る圧迫感に潰されそうだ。

早く逃げなきゃ。

何から?

待って!おいていかないで!

誰が?

何かに追い立てられて。何かに追いすがりたくて。

叫んだと思った自分の声は、瓶の中で喋っているように細かく乱反射するだけだった。もしかしたら声にすらなっていないのかもしれない。
我武者羅に手を伸ばすけれど、何ひとつ掴み取ることができない。虚空を掻く己の手の小ささに、ふと違和感を覚えたが、おぼろげな疑念は確信に変わることなく、ただただ孤独と恐怖から逃れようともがくのに必死だった。
早鐘を打つ鼓動と、引き攣った呼吸音がない交ぜになって、耳元でゴウゴウと唸りをあげる。
その音量が急激に膨張して神経を逆なでする金属的なノイズへと変わり、耳を聾するほどになった瞬間。
響いたのは――――。


「そのこは悪魔の子よ。私の子じゃないわ!」


狂気じみた女の悲鳴。


一切の音も色も消えて、あたりは暗闇に包まれた。
ぽっかりとあいた、冷たい無音の闇に立ち尽くす。
残ったものは虚無だけ。







そして蛮は目を覚ました。





闇の奥底を見つめるように大きく両目を見開いたまま、蛮は暫く息をすることさえ忘れて固まっていた。
あたりは暗い。だが、次第に目が慣れてくると自分が車の中に横たわっていることにようやく気付いた。
目の前に広がる黒い壁は運転席側のドアだ。
毛布に顔を埋めたままゆっくりと息を吐きだし、身体の強張りを解いてゆく。汗が冷たい感触を残して額を流れ落ちた。それと同時にノロノロと脳も働きだして。
……大丈夫。
いつもと同じスバルの中だ。
そして、俺は一人じゃない。
隣には人の気配――――あいつの…。
そこまで考えが及んではじめて、蛮は自分の背中から聞こえてくる声に気付いた。
声、ではなく歌声。
歌声、というより吐息に近かったけれども。
油の足らない機械のように軋む身体を捻り、寝返りを打って助手席を見た。
銀次は、毛布に包まった身体を起して膝を抱えていた。唇が音程の高低を伴いながらゆっくりと言葉を紡いでゆく。
前を見つめるその横顔が、フロントガラスから差し込む月明かりに照らされて浮かび上がる。
やわらかい輪郭。
夏頃に比べるとだいぶ伸びた前髪が目の上にかかって、鈍い光を放っていた。
悪夢に早鐘を打っていた鼓動が、次第に穏やかになってゆく。
優しくあやすような銀次の歌声にいつの間にか蛮が聞き入っていると、その気配に気付いた銀次が口を噤んでこちらを見た。
「ごめん。煩かった?」
歌声が途切れると少し肌寒くなった気がして、蛮は小さく震えた。
「いや。……お前、その歌どこで覚えたんだ?」
「蛮ちゃんも知ってるの?」
「有名な歌だし」
銀次は歌いだしの部分を、今度ははっきりと声に出して歌ってみせる。



Amazing grace, how sweet the sound
That saved a wreck like me



歌詞は英語で。それは驚くほど綺麗な発音だったから、すくなからず驚く。
「この歌?」
頷き返すと、銀次は微笑んだ。
「オレが小さい時、無限城に逃げ込んできた人が教えてくれた」
みんなでよく歌ったんだ。
目を伏せて思い出に浸る銀次を眺めながら、耳で覚えたからだと蛮は納得した。聞いたままを覚えて、声に出しているから。きっと教えた人間がネイティブだったのだろう。
「苦しい時、さみしい時に歌えば、きっと元気になるからって。楽しい時、嬉しい時に歌えば、もっと幸せになるからって。優しい気持ちになれるから。生きているのがありがたく思えるからって」
そう言って笑う銀次の瞳に、小さな陰りが過ぎったのを蛮は見逃さなかった。
「……お前のせいじゃねーよ」
言った瞬間、銀次が瞠目する。
見開かれた銀次の大きな瞳が、驚きと抑えきれない嬉しさとを浮かべて蛮を見つめた。
「…………オレ、まだ何も言ってないよ」
薄茶色に透き通った瞳が揺れる。
「ばーか。わからんでか」
銀次が参ったというようにくしゃりと笑って。
「なぁんか、そういうのズルイよ」
「ズルくねーよ」
「ズルイよ。何で、わかっちゃうんだよぉ」


歌を教えてくれた人間が死んだのは、お前のせいじゃない。
お前が無力だったからじゃない。


その頃の銀次は本当に小さかったし、少数の力のある大人たちの背中に守られて生きていた。
そもそも、無限城の中では親しい人が次の日に居なくなってしまうのなんて日常茶飯事で、それに抗うチカラも無かったのだ。
どうしようもないこと。
でも、それを銀次は悔いて己を責めるのだ。銀次とはそういう人間だった。
そして、憎まれ口を叩きながら、無骨な手つきで銀次の罪悪感を拭うのは蛮だ。
「すげーヤラレタ、って思うよ。ちょっと、…泣きそうになるよ」
「何を今更。テメー、しょっちゅう泣いてんじゃねーか」
「うっさい」
笑い泣きの顔で蛮を睨みつけた銀次が、ふと何かに気付いた様子で眉を寄せた。
「蛮ちゃん、顔色悪いよ」
「……なんでもねー」
「嫌な夢、見た?」
沈黙は肯定と同じ。
「蛮ちゃんの雰囲気、固かったから」
「……俺、何か言ってたか?」
「ううん、何も。……でも、なんか叫んでる感じがした」
叫んでるって言うか、悲鳴って言うか…、でも、寝言は言ってなくて、と銀次は視線を漂わせて言葉を探す。
「起した方がいいのかわからなかったからさ」
――――きっと。
どうするべきなのか迷った銀次は、いつかその歌を教えてくれた人の言葉を思い出して、蛮の眠りを妨げないように細心の注意を払いながら歌うことにしたのだ。
そう思うといてもたってもいられない気持がして。蛮は思わず腕を伸ばすと、銀次の手を毛布ごと掴んだ。
「蛮ちゃん?」
「……その歌、どういう意味か知ってるか?」
「あんまよく知らない。でも、誰でもきっといつか幸せになれるってことだよね」
「『驚くばかりの恵み』」
「え?」
聞き返した声には答えず、何かを耐えようと蛮は俯いて唇を噛む。無意識のうちに、銀次を掴む手に力が入った。



誰も彼も、蛮を通り過ぎていった。
この世に自分を産み落とした女は発狂し、最初の呪いの言葉を吐いた。
初めて信頼を寄せた男は、冷たくものを言わぬ骸にかわった。
淡い恋心を抱きながら大切にしていた少女は、兄の死を目の当たりにしてやはり呪いの言葉を叫んだ。
全ては生まれながらの運命というヤツに奪われてゆく。
憎しみだけを残して。
代わりに、この手を血に染めて。
それなのに、まだこんなにあたたかく自分を思いやってくれる人間がいるなんて、銀次に出会って初めて知った。



「…銀次っ」
咽喉から搾り出すような声。掠れた語尾には痛々しささえ滲んで。
「どうしたの?」
銀次は訝しげに蛮を見たが、ただならぬ気配を感じた取ったのか、握られていた手の甲を返すと毛布を避け、改めて蛮の手を握り締めた。
触れ合う手のひらの温度に、蛮の中で渦巻く感情が堰を切る。




驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知る我に




「銀次、銀次、銀次…っ!!!」
押し殺した声で何度も呼ぶ。それに銀次が手の力を込めることで答える。
銀次の名前を呼ぶことで、絶叫しそうになる自分を蛮は何とか押さえ込んだ。
悲しみ、喜び、そして絶望。
溢れ出る想いに押し流されそうになりながら。そして、どうしようもない無力感に崩れそうになりながら蛮は銀次を呼んだ。


俺を産み落としながら俺の誕生を呪った女は姿を消した。しかし、呪いは果てることなく、波のように次から次へと形を変えては押し寄せてくる。


呪われた身体をいたわってくれるこの手を離したくはないのに!
荒んでささくれ立った手を恐れずに握り返してくれるのは、この手だけなのに。


「蛮ちゃん…」
不安そうにかけられた声に、やっと蛮は我に返った。
「…………歌ってくれよ」
「え?」
「いつか、幸せになるんだろう、その歌?テメーの音痴な歌でも、少しはご利益があるんだろうぜ」
憎たらしい物言いに銀次が蛮をど突く。その反動で離れた手をさみしく思ったが、蛮は毛布を肩まで引き上げてやり過ごした。
「俺が眠るまででいいからさ」
毛布に顔を埋め、くぐもった声でぽつりと零すと、少しの間を置いて返ってきたのは了承の返事。
普段そんな風に頼みごとをしない蛮の様子に銀次が驚いたことを、目を閉じて物思いに沈んだ蛮は気付かない。
ややあって聞こえてきたのは、先ほど同様に囁くような歌声だった。
密やかな歌声は柔らかい月光に溶けて車内を満たす。
その声に促されて、足元に絡みついていた眠りがゆっくりと身体を這い上がり、蛮を覆ってゆく。



Amazing grace, how sweet the sound
That saved a wreck like me
I once was lost but now I'm found
Was blind but now I see







ごめんな、銀次。


俺はまた、お前を置き去りにするよ。
俺の不吉は、お前の輝きすら黒く塗りつぶしてしまうだろうから。


残された日々は短い。
あと、3ヶ月。
いや、あと1ヶ月だ。
お前を傷つける仕打ちしかできないこの身が恨めしくて仕方がない。
でも。
言えない言葉は沢山あるけれど、虚しく宙に散っていた俺の叫びを聞き取って、かけがえのない幸せをくれたお前の恵みに、一生俺は感謝する。



鼓膜を撫でる銀次の歌声は、まるで子守唄のように蛮を優しい眠りへと導いた。








「…………蛮ちゃん、寝ちゃった?」



END


† 蛮誕話(仮題:『奇蹟』)へ続く 




時期的には11月の半ば頃、という設定。時間軸は絆編の後で、VOODOOCHILD編の前です。
続く予定です。これだけだと肝心の部分がぼんやりしていますが、蛮の誕生日話の前振りです。でも、そちらはまだ一文字も書いていません(きゃー)。
今年中に書いてUPできればいいなぁ。書けますように〜。
冒頭の蛮の夢は、小さい蛮が必死に何かから逃げようとしている(もしくは追いすがろうとしている)イメージで。
ちなみに、この二人は出来上がっていません。プラトニック!どのように変わるのかは、続きの方で。
驚くべきことに、この銀次は音痴ではありませんことよ。
(本誌を読んでいないので、蛮両親の情報が微妙で困るのだ…。)


2004.11.3




++back++