無意識のうちに伸びようとする手を、必死になって押さえていること。

きっとあなたは知らない。




銀次は茶封筒を逆さにして床の上に中身をばら撒くと、それらを丹念に数え始めた。
「2点。1点……」
散らばった薄い紙片をひとつずつ拾っては、また床に戻す。
目を眇めて小さく印刷された数字を読み上げながら、チラリと銀次は蛮を盗み見た。
先ほどから蛮は読書に夢中だ。
銀次にはタイトルの意味さえもわからない、難解そうな分厚いハードカバーの本。きっと何かの専門書だろう。時折蛮はこういう本を読む。特にここ最近、我が家を手に入れてからは、読書の時間が増えたように思う。
正月が過ぎ、都心にも雪が降る時分になって、奪還屋のふたりはようやく小さいながらも屋根のある家を手に入れた。
丁度実入りの良い仕事が成功したところで、スバルで真冬の2月を越すのは辛いだろうと、波児が格安の物件を探して来てくれたのだ。グーなロフトもカウンターキッチンもついていない古アパートだったが、流石に冬の車生活に限界を感じていたふたりには渡りに船で、ありがたく好意に甘えたのだった。
ただし、手持ちの金は決して多くはないから、いくら格安でもいつまで住み続けられるのかわからなかったけれど…。
不意に、紙片を摘む銀次の左手の指が、痙攣したようにびくりと跳ねた。
慌てて右手で左手を抑える。
息を呑んで恐る恐る手を離してみると、指も腕も、もう何事もなかったように銀次の命令に従順だった。
ほっとして、再び銀次は紙片を数えだす。
部屋の反対側の壁に背をあずける蛮。そこへ向かおうとする意識を引き剥がして、目の前の計算に全ての神経を集中させようと努力する。
自分には到底向いてないと思うこんな細かい作業を敢えてやっているのは、そのためなのだから。
スバルの中では有り得なかった、蛮と自分の間にできた空間が肌寒い。
小さく身震いをして、銀次は単純な足し算を始めた。
そうして、小さな部屋に銀次の密やかな数え声と、蛮が本のページをめくる音だけが暫く続いた。
「あ!これ5点だ!凄い!!」
突然銀次が歓声を上げた。
「……お前、何やってんの?」
本から顔を上げた蛮が、銀次の様子にやっと今気づいたという顔をして尋ねる。
「ベルマーク」
「は?」
「ベルマーク、数えてんの。…っ!ああ!!」
「な、何だよ」
「どこまで数えたか忘れちゃったじゃん!」
「アホか……」
癇癪を起こして頭をかきむしる銀次に、蛮はがっくりと項垂れた。
「つーか、オマエ、そんなのどうすんだ?」
「ベルマークを集めると、景品と交換してくれるんだよ」
波児のところでいっぱい貰ってきたんだと笑顔で返されて、蛮はご苦労なこってと独りごちる。銀次には聞こえないくらいの声で。
「沢山集めるとピアノが貰えるんだって」
「……ピアノ貰ってどうすんだよ」
「蛮ちゃん、弾けるでしょ?」
銀次が小首をかしげて問うた。ヴァイオリンが弾ければ、他の楽器は全て弾けるとでも思っているのか。疑問ではなく、確認する声音だった。
「弾けるっちゃー弾けるけどよ。だいたいこの部屋に入らねーだろが」
「ええ?!ピアノってそんな大きいの?」
銀次はぐるりと首を回して部屋を見渡す。
「バーカ。この部屋が狭いんだよ。だいたいピアノってのは重いから、床がしっかりしたところじゃないとダメなんだぜ」
銀次は呆れて諭す蛮に視線を戻すと、真っ直ぐに見つめた。
水平に片腕を伸ばして、指を立て、
「3メートル」
立てられた指は三本。
「何が?」
さっきから銀次は、前後の文脈を欠いて断片的なことばかりを言う。その度に蛮は聞きなおさねばならない。しかし銀次の顔つきは至って真剣で、蛮は苛立ちよりも疑念が先にたつのだ。
「こんなにオレと蛮ちゃんの距離が開いたことってなかったからさ…」
こんなボロアパートでも、当然スバルの中よりは広い。助手席と運転席と、腕が触れるほど近くにいるのに馴染んでいたから、突如開いた距離をとても遠く感じた。
だからてっきり、一見小さくても実はとても広い部屋だと思っていたのに…。
「そっかぁ。もっと広い所じゃないとダメなんだ。……じゃあもっとお金貯めて、大きなお家に引っ越せるようにならなきゃね」
それまでに、お金と一緒にベルマークも集めればいいし。
自分の中で相反する向きを持つ願いに折り合いをつけて、銀次は笑った。
口元に少しの諦めが滲んでいる。
そして、微かに残る落胆を振り払おうとする健気な努力も。
それを見取った蛮の瞳が眇められたことに銀次は気づかず、そのままぐんと伸びをした。ずっと細かい作業をしていたせいで凝り固まった身体をほぐす。
背を反らせながら、ついでに大きな欠伸をしていると、いきなり視界が遮られた。
「うわっぷ」
「ホレ、風呂でも入って寝ろ」
頭から被せられたタオルの隙間から見えたのは、ついさっきまで部屋の端にいたはずの蛮の脚。
そのまま上へ辿っていくと、腰に手を当てて覗き込んでくる蛮と目が合った。
「オコチャマはおねむの時間でちゅよー?」
「オコチャマじゃないもん!」
「ハイハイ。わかったから、とっとと風呂入って寝ろ」
しっしと猫を追い払うようにして踵を返そうとした蛮だが。
「ん?」
「んあ?」
蛮が半身を返した中途半端な姿勢のまま、立ち止まった。
そして、蛮の視線の先には、上着の裾を握る手。
その手は紛れもなく銀次のもので。
「……あれ?」
咄嗟に蛮の服を掴んだらしい自分の手を確認して、銀次は首を傾げた。
奇妙な間が落ちる。
「コラ」
とりあえず、銀次は右手で蛮に伸ばした左手を叩いてお仕置きをすると、そっと手を離した。
そのまま引こうとした腕を、今度は素早く伸びてきた蛮の手が掴み取る。
腰をかがめて目線の高さを合わせた蛮が、心底意地悪そうにニヤリと笑った。
……うっ。
思わず銀次は呻く。
「ふ〜ん。銀次君は寂しくてお風呂も一人で入れませんかぁ?」
「やっ、これは違う!違うからっ。てゆーか、オレもよくわかんないし」
「無意識かよ」
弾ける蛮の笑い声に、銀次は真っ赤になった。
「いいぜ?一緒に入ってやるよ」
「ええ?!ちょ、ちょっと待ってよ」
「金貯めてもっと広い部屋に移るんだろ?一緒に入った方が節約になるって」
「え?そうなの?……う、嘘だ。絶対嘘だ!」
「嘘じゃねーって。みのもんたも言ってたしよ」
「みのさん、そんなこと言わないよ!」
「うっせー。ビンボー臭ぇ生活の知恵っつったらみのもんたなんだよ」
「やっぱ嘘じゃんかー!」
「つべこべ言ってねーで入るぞ!」
蛮の唇が底意地悪く歪むのは、何かを企んでいる時のしるしで。
ああ、もう。絶対節約のためなんかじゃない!
「なんかする気だぁー!」
「当たり前だ!!何もしないでどうする?!」
ごねる銀次に業を煮やしたのか、蛮が開き直って言い放つ。
「おら、来い!!」
首根っこをつかまれて、銀次は風呂場にズルズルと引きずられていった。








銀次、ご愁傷様。
次はR-18なので、ダメな方はお戻りください。